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水族館通信  NO.6     95年 暑さ厳 しい夏に


 知人・友人各位

 長目の梅雨もようやく終ったかと思うと、一転して暑さの厳しい日が続き、小平水族館の小さな住人達もグロッキ−気味ですが、皆さん元気にお過ごしのことと思います。こういうと、熱帯魚がどうして夏バテするんだと不思議に思う人もいるかも知れませんが、西陽の当たる廊下に置いてある水槽の温度は日中32,3度まで上がります。さすが熱帯魚なので徐々にそこまで水温が上がる分には平気なのですが、急激な温度の変化には意外と弱いのです。それに、水温が上がると溶存酸素量が少なくなるので、過密な状態で飼っていると酸欠になり死んでしまうこともあるのです。急激に温度の上がる過密なアスフアルトジャングルに住む都会の住人も、気をつけた方がいいかも知れません。

●「港・テトラ・町おこし」……第一回講演会開かる

 六月三日、東大三鷹寮同期の運輸省第一港湾建設局新潟港工事事務所石山所長をお招きして、「まちおこし講演会」をふるさと能代で開催しました。初めての試みで多少の不安もありましたが、わざわざ休暇を取って遠路お来し頂いた石山所長は勿論のこととして、宮腰能代市長、菊地八森町長、山木能代商工会議所会頭、更に能代高校同期の能登県議、梅田、松谷能代市議、中田建設中田潤社長等多数の方々のご協力を得て、お陰様で成功裡に終えることが出来ました。有り難うございました。又、郷里の岩館で郵便局を営む兄夫妻には毎度のこととは言え、石山君共々一夜の宿と山海の幸を供して頂きました。それに何よりも「能代山本フオーラム21」事務局長の飯坂君の尽力を抜きにしては何も出来ませんでした。重ねて皆様方に感謝の意を表したいと思います。

 講演会は60名と予想をはるかに越える方に参加して頂き、慌てて席を増やす場面もあり、ました。懇親会でも「かんりん丸」の具体的な話が出るなど、全体として有意義な講演会だったのではないでしょうか。「日本海賑わい・交流海道構想」や高速艇のテクノスーパーライナー導入、離岸堤の撤去と潜堤の設置(テトラポットの沖合海面下設置)等の提案、そして何よりも「地域づくり街づくりは地元からの強い意欲を持った運動が大切だ」という石山君の問題提起に応えるような運動が地元から起ればと思いますし、出席者の顔触れからも十分期待出来るのではないでしょうか。私もそんな動きに参加出来ればと「港に冷蔵倉庫を」という地元の声を聞き、帰京後さっそく冷凍倉庫業界のトップ企業で、東大三鷹寮の同窓生が要職を占めるニチレイと連絡を取り、七月の初めに能代市の金田助役と同社幹部との会談の場を設定させて頂きました。ニチレイが簡単に能代港に冷蔵倉庫をつくるとは思いませんが、どんな条件を整えれば冷蔵倉庫をつくることが出来るのか、多少は勉強になったのではないでしょうか。そこから更に、話が拡がって行けばと思います。

 又、石山所長からは白神山と同じく世界文化遺産に指定された屋久杉は何処に行けば見れるかはっきりしているが、白神山はどう行ったらいいのかよく分からない。先に手を上げてしまった方が勝ちではないかとの提案がありました。例えば「立松和平と歩く白神の秋」とか「加藤登紀子と楽しむ白神山と日本海の幸」のようなツアーをJRや旅行会社等と組んで企画してはどうでしょうか。「ワッペイ」や「オトキ」が白神山に行くと言ったらTV等のマスコミも動かせるかも知れません。そうしたら「白神といったら八森」というイメージ作りに役立つのではないでしょうか。そして、八森と能代でワッペイには講演会を、オトキにはコンサートをやって貰えば、能代・山本の人々も楽しむことが出来ます。多少金が落ちても、よその人間を楽しませるだけでは面白くありません。ワッペイには真冬の日本海でハタハタと一緒に潜るツアーのコンダクターをして貰うのもどうでしょう(危険過ぎる?)。そうすれば、或いはワッペイは面白い本を世に出し、八森を全国に売り出してくれるかも知れませんし、オトキは白神の自然を高らかに賛える歌を生み出し、日本中の人がそれを歌ってくれるかも知れません。立松和平は全共闘OBを中心に五月末に結成した情報・人材バンク「プロジェクト猪」の運営委員に私と名を連ねていますし、加藤登紀子は三鷹寮の寮祭に出演してくれます。秋田に足を運んでもらうのは可能かと思います。

 ところで、「能代山本フオーラム21」の二回目の「まちおこし講演会」は、昭和41年入学の駒場の中国語クラスの同級生、松元直歳君にご足労頂き、9月2日(土)、能代の「プラザ都」で三時から講演会、五時から懇親会と、前回同様の形式で開催することになりました。彼は福岡の久留米大付設高出身で、法学部を卒業後日本航空に入社し、交流人事で一昨年にJALからJR東日本に出向して、本社の営業部部長をしています。大館と能代の中間、鷹巣町に出来る大館能代空港も着工し、秋田新幹線の工事も進み、能代山本の交通の便は格段に良くなろうとしていますが、ここでも又、「立派な空港は出来たが、飛行機が来ない」という、港と同じ問題が内在しているようです。インフラの整備と平行して、それらをどう利用して町作りを進めていくのか、観光開発等ソフトの問題を考えていかなければならない。そんな声を故郷で多く耳にしました。

 その点で、空路の営業も陸路の営業も熟知している松元君は、能代山本の観光と交通の問題を共に考えるには打ってつけだと思います。JR東日本に出向後東北を一周し、五能線も走破した経験もある彼ですから、具体的な提案も期待出来るのではないでしょうか。駒場のクラスでは左右の対極に分かれ、歯に衣を着せることを知らぬ性格の松元君とは、交わることのない議論を繰り返したものですが、今、「原点に返り、故郷のために役に立ちたい」という私の思いに共感して頂き、講演会という一つの行為を共にするというのは感慨深いものがあります。

 同級生というと、この六月の人事移動で石井九州運輸局長、小谷九州郵政局長、鳥越北海道電波監理局長等、三鷹寮の昭和41年入学の同期生が沢山地方の局長に栄転しましたが、中国語クラスの同級生、大蔵省の西田等君も東北財務局長の要職に就かれました。わざわざ「東北六県(能代を含む)の財政、金融の仕事をすることになりました」とのご挨拶をいただきましたので、必要なら能代山本のために一肌ぬいでくれるのではないでしょうか。

●Y子さんへの手紙

 「プロジェクト猪」宛てのお便り、二度とも拝見させていただきました。過去をきちんと「総括」することは確かに大事なことだと思います。最近まできちんと総括を出せない以上、沈黙することが一つの責任の取り方だと思って、私もそうして来ました。しかし、「総括」している間にも時は流れ、状況は移り、「生活」は続きます。そして、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」(マルクス)理想の自由社会を目指して若いエネルギーの全てを学生運動に注いだと自負する私ですが、全共闘運動の敗北後、残念ながらそこに至る新たな道筋を見つけられない今、ベストとはいえなくともベターを目指すことも許されるのではないかと思うようになりました。

 丁度そんな時に「猪」の呼び掛けがあり、途中から参加しました。イメージが先行しているきらいがありますが、共に考える仲間がいるということは素晴らしいことだと思います。私の好きな言葉に「一張一弛は文武の道なり」という孔子の言葉があります。取り敢えず、公開の勉強会を大衆的にやっているというところですが、長谷川さんも一度肩の力を抜いて「猪」の運動に参加されてみては如何でしょうか。

●Y子さん(東大教養学部文科三類S43年入学)からの手紙

 「全共闘白書」の中の“座談会”にも如実に表れていたけれど、このアッケラカンとした楽しさは!「人生を二度楽しむために」とか「全共闘運動で青春を主要に燃やした場所」とかいうフレ−ズを恥ずかしげもなく“人前で”使うことができる感覚が信じがたい。全共闘運動を「苦い後半戦」まで闘うことなく、早々に逃げ出した者の特権なのだろうか。

 オウム真理教で日本中大騒ぎ。我々がきちんと総括(浮かれた「楽しかった」総括ではなく、ただ沈黙するのでもなく)していれば“防げた”かどうかは、わからない。しかし、麻原・オウム真理教も全共闘運動の負の遺産を引きずった存在であったことは確かだ。青島・横山現象を語っても、オウムは「全く関係ない」で済むのだろうか。

 連合赤軍も“内ゲバ殺人も”自分達とは切り離してしまって「いいとこどり」で全共闘運動を語ることに何の意味があろう。全共闘運動が「若者の社会的関心」「ボランテイア」「地域運動」一般の話に還元されてしまう位のものだったら、民に暴力をふるうなど(個人的には一方的にふるわれっぱなしだが)しなければ良かったではないか。私は、多分、誰にも負けないほど全共闘運動を誇りに思っている。同時に連合赤軍にも“内ゲバ殺人”にも直接手を触れてはいないが、「他人ごと」とは思えない。「いいとこどり」の無内容さで、全共闘運動の歴史的意味を抹殺する、あなたたちの「頑張り」は腹立たしい。

 それぞれの人が、どういう経緯で、どういう係わりを、全共闘運動と切り結んだかは知らない。ただ、当時知っていた何人かが「アッケラカンと楽しかった総括」に乗っかっているのには、冗談ではないぜと、文句の一つも言いたい。干場革治氏、木村修氏(当時駒場にいた木村氏なら……同姓同名の他人なら知らない……)も、そんなにアッケラカンとしていて良い立場だったとは認識していないので、名指しで「文句」を言いたい。

●どこまで走れるか「猪」

 五月末の結成総会と記念シンポジュ−ム「リストラ・・この時代をどう生き抜くか」で、人材・情報バンク「猪」もいよいよスタ−ト。シンポジュ−ムの中身の割りには結集度合いが「今市」ですが、時々マスコミも取り上げてくれるので、色々な意見が寄せられます。Y子さんの様な「左」からの批判も、あいつら又、「政治」でもやるのではないか、という危惧も寄せられます。いずれにしろ、名指しで批判を頂いたというのは光栄なことで、東京特別区の土木部職員の木村君が「干場、お前書け」というので、今回は一応私が「返事」を書いたのですが、彼女にとっては殆ど返事の体をなしていないでしょう。。

 大学闘争が盛り上がり始めていたS43年入学のY子さんは全共闘運動に参加して来た方。S41年入学で、入学早々に学生運動を始めた私は党派の活動家で、「革命運動」の一環として全共闘運動を組織した方。「全共闘運動」に対する思い入れは彼女の方が強いのかも知れません。そして、時間も止まったままのようです。

 あの頃、ここで我々が負けたら多分日本も又、アメリカが議会の多数決で、従って国民の名前でベトナムで戦争をしている様に、雪崩を打って進出しつつある企業の利益、つまり「国益」を守るために、アジアの何処かで戦争を始めるのではないか、それは何としても阻止しなくてはいけない。そして、日本のアジア侵略に反対して立ち上がるアジアの民衆と連帯することで、日本革命の展望も開ける。「(アジアの)農村が(アジアの)都市を包囲する」(毛沢東)のだ。そんな意識で、何回ブタ箱にぶち込まれてもへこたれずにデモに参加していました。結果として我々は破れ、今や、日本社会のアメリカ化はどんどん進み、経済(もっとアメリカ化しろと要求されていますが)はおろか犯罪までアメリカナイズされ、都市では薬物が蔓延し、銃器が氾濫して、オウムの様なオカルト現象も一般化しているようですが、幸いにして戦争を始めるところまでは行っていません。全共闘は既成の秩序、価値観に対して挑戦し、傷つけただけで、何も新しいものを生み出していない、そこに「ポスト全共闘」の不毛の根源があると批判する向きもあります。

 しかし、その時代の支配的な思想は支配階級の思想なのですから、「支配」を獲得し得なかった全共闘に対して、「社会を支配する新たな価値体系」を構築し得なかったと批判するのは、的外れです。何故支配を獲得し得なかったのか、それこそが問題なのです。それはこと日本に限って言えば、経済の「高度成長」に敗北したのです。社会党、共産党も含めて。少なくとも東北の片田舎においては60年代の半ばまであった、そして干場少年が「憤怒の河」を渡らざるを得なかった「絶対的な貧困」がほぼ無くなった。そこに直接的な敗因があり、それに対抗し得なかった「革命理論の貧困」こそ問題だったのです。今又、ソ連の崩壊と中国の現状を見るにつけ、マルクス以降の「マルクス主義」の問題点も、そして多分「世界革命」とはヨ−ロッパ革命であり、それは「資本主義の最も弱い環」としてのドイツから始まると考えたマルクス自身の「時代的」限界も明らかにしたのです。。

 しかし、マルクスにとって「世界」の範疇外であったロシアや中国で革命が勃発した時、それは「革命」ではないから止めろと言う権利が誰にあったでしょう。いずれにしろ、絶対的な窮乏に喘いでいたロシアや中国で取り敢えず革命は成就し、遂に日本では「革命ごっこ」で終わらざるを得なかったのです。

 しかし、戦後の「革命期」に流産した「日本革命は」、社会の発展にとって寄与度ゼロだったのでしょうか。「左翼反対派」の存在が再軍備と戦争の問題、福祉と環境、所得の分配等に大きな役割を果たし、平和と民主主義、平等な福祉社会へと前進する担保とならなかったのでしょうか。「何でも反対する」社会党に代表される「反体制派」の存在が、政策遂行の上で一定の妥協を「体制」に対して強い、「極端」に走ることを阻止することはなかったのでしょうか。そして、これからはどうでしょうか。「55年体制」が崩壊し(政治に於ける「高度成長路線」の終焉)、経済も高度成長から低成長への移行で迷走し、社会の全ての局面で移行期の軋みが表面化し、時代閉塞の状況を呈する今、それを打ち破る強力な政治、多党派連立から二大政党制への移行が語られる時、社会のバランスの取れた発展を保障するものは何でしょうか。「強力な政治」の中身は問題にならないのでしょうか。

 戦後50年を経ても、全ての国民に「オウム」になることを強制した戦争の「総括」も出来ず、「天皇制」の再来を図るオウムのような組織が出現する状況で、強力な「腕力」の出現は、果たして国民の幸福を保障するのでしょうか。そこに「第三極」の存在する必要はないのでしょうか。あるとすれば、人生のプロセスの節目節目で、その数の多さの故に時代の矛盾を常に背負い続け、であるが故に全共闘運動をも体験して来た団塊の世代が、長い沈黙を破って今こそ声を上げてその一翼を担う必要はないのでしょうか。そして、一敗地にまみれた後は社会の各分野に散って、ひたすら体制を支えて来た手負いの「猪」は、その後のそれぞれの生き様を踏まえて、新しい土俵の上でどこまで走れるのでしょうか。「今市」の先まで走れると結構なのですが。

●人はいずれ老いる

 東大三鷹クラブの会員相互の親睦と研鑽を兼ねた、会員による、会員のための定例懇談会も三回目を数えるに至りました。第三回は日本経済新聞論説委員(社会福祉担当)の渡辺俊介氏(S40年入寮)を講師に低成長経済の中ですでに高齢化社会に入った日本で鋭く問われている、年金、介護、そのための財源等老人福祉の問題を考えて見たいと思います。 老人福祉の問題は、40代半ば以降を主たる構成メンバ−とする三鷹クラブの会員個々にとって既に切実な問題です。同時に、高齢化の更なる進行に伴い、財源の面から財政、税制の仕組みと大きく関わって、世代間の対立の様相すら呈しつつ、より深刻な社会問題となりつつあります。

 しかし、人はいずれ老いるのです。生まれた時がそうであったように、他人の手をかりずには、死に、そして自然に還えることさえままならないのが人間なのです。「その時」まで元気でいたい、誰かのために役立ちたい、多くの人がそう考えるとすれば、自ずと解決の道もあるのではないでしょうか。自己実現の場は企業だけではありませんし、一定の年齢で身体も頭も突然働かなくなる訳ではありません。今まで生かされていなかった気力と体力を有効活用するシステム作りが、一つの解決策になるのではないでしょうか。そこからは新たなビジネスの可能性も広がります。それは又、低迷する経済の活性化と産業構造の改変に密接に繋がり、新たなパラダイム構築の好機ともなります。最近、社会保障制度審議会等の「答申」もありましたが、今回はそれらの評価も織り込んで、老人福祉の問題全般について話して頂く予定です。

 案内は会員にしか致しませんので、まだ入会していない寮友については会員の方から声を掛けて頂き、多数の方が参加して頂ければと思います。又、6時半から9時の学士会館本館での講演会終了後、近くの中国料理店で懇親会も予定しています。尚、次回は11月24日(金)に倉内憲孝住友電気工業社長(S29年入寮)を講師に(テ−マ未定)行います。

●「寮祭」準備着々進む

 前寮委員長の藤井君を中心に十月末の「寮祭」(寮の正式名称は東大三鷹国際学生宿舎なので「宿舎祭」というべきか)復活に向けて準備が進んでいます。1/3 が留学生という新生三鷹寮の性格を踏まえ、国際連帯と地域との結び付きをテ−マにOBとの交流も図る新しい形の寮祭を目指しています。メニュ−としては10/29(日)の午後に加藤登紀子さんのスケジュ−ルを空けてもらいましたので「トキコ世界を語る」(仮称)ト−クショ−、留学生主宰のデイスコパ−テイ、エスニック料理の屋台村、28日(土)にはOB・現役対抗テニス大会、卓球大会、OB講師による記念講演、OB・現役を交えた懇親会等を予定しています。そして、ICUや東京女子大等三鷹市内の大学生を中心に、三鷹市民にも出来るだけ公開して行きたいと藤井君達は張り切っています。

●「臭い仲」

 先日名古屋、京都、大阪と出張し、新大阪から新幹線で帰ろうと改札を通ったら、目の前に三鷹寮同期のエ−ザイ製薬の宗像君が座っています。びっくりしながら、ひとしきり話して時間だからと別れてホ−ムに上がったら、今度は「のぞみ」の同じ乗り口に法政大の学生運動仲間の荒木君が並んでいます。あちこちで、よくバッタリ知り合いに出会うことが多いのですが、一日に二人、しかも同じ駅でというのは初めてでこれ又ビックリ。しかも前日には赤坂で知人と昼食をしていて、隣を見たら三鷹寮の先輩の重国弁護士が食事をしているということがあったので、なおさらビックリ。

 そう言えば新大阪の駅では新幹線を降りてトイレへ入ったら、あの臭って来そうなほどに汚い三鷹寮の同室の後輩で、大阪で弁護士をしている浅野君にバッタリ出会うということもありました。そしてお互いに、「臭い仲ですね」と苦笑してしまいました。 夏の盛りは田舎へ休暇で、地方へ出張でと遠くへ出掛ける機会も多いのですが、この夏はどんな出会いがあるでしょうか。皆さんにも暑さを忘れさせるようないい出会いが沢山あることを祈って、長くなった筆を置きたいと思います。読了、ご苦労様でした。

 95年、暑さ厳しい夏に  干場

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