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水族館通信  NO.4       1995・01      


知人・友人各位

 水族館通信も遂に四号刊行の運びとなりました。一号をワ-プロしたのが五月の連休、楽しみにしていた奥只見丸山でのスキーの滑り納めもギックリ腰で適わず、仕方無く腹這いでキーを叩いたのが始まりでした。シーズン真っ盛りのスキーの方は今まで一緒に付き合ってくれた子供二人がいずれも受験で手一杯。一人では行く気にもならず。受験が終わったら纏めて白銀にシュプ-ルをと、取り敢えずは凍て付く夜に、デイスカスやアロワナが悠然と泳ぎ、ネオンテトラやグッピーが色鮮やかな小平水族館から、メッセージを送ります。

●憧れの眼鏡が手元に

 少年の頃、朝目覚めると海を眺め、何もない遥か水平線の彼方をじっと見つめて、物思いに耽ることがよくありました。海の向こうにソ連という国があり、血の粛正が行われていることまでは知る由もありませんでしたが。そのせいでしょうか、目だけは良く、現在まで視力は2近くあります。その割には見通しが利かなくて、後からついて行ってえらい目にあったと、駒場の中国語クラスと三鷹寮で一年下で同じ頃に刑務所にも入る羽目になり、今は弁護士をしている出雲出身のK君あたりからは怨み節の一つでも聞こえてきそうです。(ところで、昨秋出雲高校同窓会が燃えていると言っていた、岩国哲人出雲市長は都知事選に出るのでしょうか)

 そんな私ですが、眼鏡をかけたくて仕方がない時がありました。何となく知的で、よく勉強しているようで、魚釣りやスキー、素潜ぐりとたまの読書という野生児にはとても恰好よく映ったのです。しかし、多少の勉強では願いが叶う筈もなく、眼鏡とは縁遠かったのですが、今や貴重な読書の場の感のある通勤の電車の中で文庫本が読めなくなり、時に自分の書き込んだ手帳の電話番号さえ読めず、電話をかけ間違えてしまいます。かくて憧れの眼鏡を手にすることになったのですが、今度は遠くの物がきつく見えるのでかけたり外したりしなければならず、置き忘れては本を読むためにあちこち探し回ります。それで今まで眼鏡をかけずに来れた有り難みも又、確認することになりました。

●山は高いほどいい

 このところ又、学校でのいじめ事件が多発し、今や子を持つ親、かつての怒れる若者、全共闘OBの「プロジェクト猪」の集まりでもよく議論されます。そこで、登校拒否の子を持つ仲間を中心にプロジェクトを作り、教育問題の勉強をし、社会に対して何等かの提言が出来たらなどと話し合ったりしています。

 小生も世間並みに、二度目の大学受験間近の息子と、これ又、高校受験目前の娘と二人の子供を持っています。機械体操をしたいということで、息子は体操部のある高校だけ三つを受験し、一番施設のいい高校に入学しました。もっと進学実績のいい所を選んだらとか色々親子で議論し、最終的には子供の意見を尊重しました。所詮子供の人生は子のもの、親は自立の手助けをするだけ。子が自分の人生の選択について主張するようになったら、親は対案を示し、思考の十全を期するだけだと思うからです。何より、最終的に自分の人生については自分しか責任の取り様がないのですから。

 それに私自身、物心ついてからは基本的に自分の選択を押し通して来ました。明治9年に秋田の海岸線の北の果て、海と山の狭間に岩館郵便局が開局して以来四代(2号で三代と記しましたが夏の帰省の際、四代目であること、全国的にも四代続いている局は珍しく、江戸から明治にかけ、ニシン漁の網元をして羽振りの良かった初代は電話を含め逓信事業に私財も投入し貢献していることなど、兄から指摘されました)、兄の代まで100年以上末端の郵政官僚を続けている訳ですが、父親は偶々多少学業成績の良かった私に郵政関係の推薦枠があるから立正大学へ行け(真偽の程は定かではありません)とか、学生運動を始めると東大の寮を出て郵政関係の子弟の寮に移れとか、時々言って来ました。極め付けは’70年の真夏の刑務所の“対決”でした。前年から未決で中野刑務所に収監されていた私に父が遥々面会にやって来ました。面会所の網入りガラス越しに二人は向き合い、大陸に出征した父に私は侵略戦争の自己批判を要求しました。自己批判しない限り口は聞けないと。沈黙の時が流れ、15分の面会時間は静かに過ぎました。

 父子の関係はそんなものではないでしょうか。子は親を乗り越えて成長し、乗り越える山は高いほどいい。だから、高校生や大学生になっても親の意見に唯々諾々と従う子供は気色が悪いし、親も又、成長しなければ。そういう訳で浪人するよりは入れるところへ入って大学で一年遊んだ方がいいよとの親の意見も、予備校に行けばとの忠告も聞かず一人で頑張る息子に、何となく納得してしまいます。いずれにしろ、今年は引っ掛かりそうな所も受けてくれると思うのですが、さてどうですか。

●ハラハラ・ドキドキ

 子供の中学進学に当たって、妻も仕事を持ち時間的余裕がありません。私もかつて受験産業に身を置いて、狭いケ-ジに押し込められ、無理やり餌を食べさせられ、眠る・眠らないの自由さえない、ブロイラ-の様な生活を強いる中学受験の実態を知っていたので、とても子供をその戦列に投じる気にはなれません。東進(ハイ)スク-ルを経営する店頭公開企業のナガセの永瀬兄弟(S43年、45年三鷹寮入寮)は、“受験”を“甲子園”に例え、スパルタ式の特訓を売り物にしていますが、両方共にバランスを欠くように思えます。そこには、日本人ののめり込んでしまう体質の様なものを感じます。勿論公立中学の教育水準とか、荒れる学校とか十々承知の上です。だから私立に避難させるというのも一つの方針ですが、厳しい現実の只中に放り込み、身を以て体験させるのも教育。それに私立中学へ行っても必ずしも「いい大学」へ行ける訳ではありません。大学受験といっても、所詮大したことを勉強する訳ではないし、高校受験から勉強しても十分。遊ぶ時には遊ばした方がよい。そう思って二人とも公立中学に進学させました。

 そして、息子の方は特に問題無かったのですが、娘の方は一波乱、二波乱。それまで練馬のマンションに住み、娘の部屋もあったのですが、狭い上に窓もありませんでした。それで中学進学に当たり、バブルも弾け不動産も値を下げたことだし娘にも窓のある部屋をと、それまでの倍の住宅ロ-ンを組み、小平の10坪ほど広い建て売り住宅に移りました。しかし、それが裏目に出て娘は中学に馴染めず、しばらくしても友達が出来ないと泣かれることしばしば。それでもその内慣れるだろう、これも勉強と話を聞いてあげるだけで特に手を打たずにいました。

 そうしたら春休みに問題のある生徒の集まるアパ-トに出入りして、煙草を吸ったということで、2年生になったら直ぐ学校に呼び出されました。その内髪を赤く染め、唇に紅を引き、爪をテカテカさせ、言葉も荒くなり、学校に呼び出され、転校を勧められる始末。丁度私が転職して、筑波の工場に研修で単身赴任していた時。夜独身寮から心配して電話すると、娘の塾からの帰宅が遅いと妻に泣き言を言われます。それで娘と話をするために夜遅く2時間車を飛ばして帰り、明け方取って返すこともしばしば。妻も休暇を取って早目に帰り学校に迎えに行きます。電話は居間のものだけにして各部屋の子機は取り外し、電話がかかって来ても取り次がず、塾も止めさせました。学校とも連絡を密に取り徹底して問題グル-プと切り離し、私には心許せる友達がいないのよと泣く娘と極力話し合うようにしました。その内グル-プのリ-ダ-格は少年院へ行ったり、転校したり。それでも転校した子から偽名で電話がかかって来たり。そうこうする内に夏休み前には娘も落ち着き、他に友達も出来、一件落着。今では気の合う友達の輪が広がり、学校が面白くて仕方無いらしく、この冬休みは早く学校が始まらないかと指折り数える始末です。

 そういう訳で、子のためにと無理して家を買い換えたのが裏目に出たと臍を噛み、友達が出来ないと娘に泣かれては返す言葉に窮したのは何だったのだろうと、今では昔のような話です。“平穏無事”それも人生ですが、ハラハラ・ドキドキのない人生もつまらないもの。その意味では親をハラハラ・ドキドキさせてくれる娘は孝行娘という感じもしますが、親を困らせる血は争えないということなのでしょうか。今だからこう言えますが、あの時は本当に困ってしまいました。それでも私は一過性のものでいずれ時間が解決すると高をくくっていましたが、一人っ子で子供の余り得意でない妻は、大いに面食らったようです。その節は色々な方に助言を頂き、ありがとうございました。

●横議横行

 のめり込みという点では学生運動もそうでした。24時間運動のために、全てを運動のために、私もそう思ってひたすら頑張りました。そして、ビジネス社会に入ると今度は会社のために、エコノミックアニマルと批判されながらも、全共闘世代も又、24時間所を変えて戦って来たのでしょうか。それにも関わらず今、リストラという名で裏切られ、全体のために個の犠牲を強要され、他方では未だに「24時間戦えますか」とブラウン管越しに煽(られ)る皮肉。そこで世代の共通に抱える問題を共に考え、世の中に提言して行こうと全共闘OB有志が「プロジェクト猪」を結成し、全共闘白書を出版しました。

 これをきっかけに、改めて全共闘の運動がマスコミでも色々取り上げられ、1月18日の「時代と語る……全共闘体験と表現行為」シンポジュ-ムも朝・毎・読の3紙の都内版とTV東京の日曜夕方の報道番組で10分ほど扱って貰った(干場familyと三鷹寮の藤井寮委員長と曳野前委員長も登場)こともあり、会場を一杯に埋める500名の方にお集まり頂き、居酒屋での二次会にも60名ほど集まりました。少しずつエネルギ-が盛り上がって来ている感じがします。

 10月の駒場祭の現役学生との対話集会も同じ時間に田中秀征氏等代議士数人を呼んだ講演会が50人しか集まらなかったのに、特に目玉もない硬派の企画にしては200名ほど集まり、全共闘活動家OB以外にもNTTリビング常務の剣持君(41年入寮)、子供が駒場にいるというコスモ証券の安島君(42年入寮)等の懐かしい顔もありました。

 記事にしてくれた読売の内容が「全共闘キャンパスに帰る、無関心学生に活」と刺激的だったからでしょうか、戦旗荒派と称する活動家が数人押掛け、今の学生が無関心とは何だ、お前等こそ何かして来たのかと緊張する場面もありました。何もして来ませんでした、皆と一緒に考えたいと思って来ました、元気な学生に昔の自分を見るようで安心しましたとの小賢しい私の発言をきっかけに雰囲気が変わって議論が噛み合うようになり、対話集会らしくなりましたが、よもや自らの「末裔」に吊し上げられかかるとは思いもよりませんでした。もっとも先日のシンポジュームでも叛旗互助会と称する組織が、全共闘を潜称し昔を懐かしむだけであれば粉砕するとのビラを撒いてくれました。戦旗といい叛旗といい、ブント系は物好きなんでしょうか。月一回大久保の居酒屋で飲んでいるから集まれという呼び掛けといい、そっちこそという感じですが。

 勿論全共闘の昔を懐かしんでいるだけでは仕方が無い訳で、年金を始め「団塊の世代」が抱える問題を通して今という「時代」を考え、解決策を提言し実行して行きたい、それを全共闘流の横議横行でやって行こう。そういう姿勢で活動しています。それで11月には今井澄、栗本慎一郎、海江田万里、江田五月、菅直人、石井紘基氏等60年代をキャンパスで過ごした与野党の10名の議員に集まって頂き、憲政会館で交流集会を持ちました。他に10名ほどの議員の賛同も得ていますので、定期的に会合を持って行ければと思っています。

●光と影

 全共闘に代表される60年代の学生運動は日本経済の高度成長路線に挑戦し、池田勇人の所得倍増政策に敗北したとも言えます。恰も「ハチのムサシ」の如くに。高度成長路線の矛盾を告発し、ソ連流の「社会主義」でもない、「人間の顔をした社会主義」を提起しながら、その具体像を打ち出せず、内部にも様々な問題を抱えたままに。今、世代として改めて社会的な発言をしようとする時、その点の総括も避けて通れない感じがします。

 一つは目的と手段の関係です。。目的が正しければ手段の多少の逸脱は許される。些かの割り切れなさを抱えながら、必要に迫られ材木屋に押し掛け角材を奪う。集団で電車にただ乗りする。それが最後に行き着いた所が内ゲバ(外から見ると内ゲバ、中から見ると外ゲバ)と連合赤軍によるリンチ殺人事件。そこに共通するのは目的が手段を正当化するという思い上がりと内・外を区別し、外に対しては何でも許されるという排外主義。目的は(正当防衛の範囲を越えて)手段を決して正当化しないし、排除の論理によっては多数派を形成しえない以上、社会の変革も又、不可能だったのではないかと。

 又、暴力の問題もあります。階級社会に於ける「法による支配」が警察、裁判所、監獄、軍隊という「暴力装置」によって担保される以上、「法」を越えて社会を変革しようとする時、暴力の問題は避けて通れません。我々はデモ隊を両側からサンドイッチする機動隊の壁を突破し、意思表示を貫徹する現実的必要からゲバ棒とヘルメットで「武装」しました。次にこれに武装の現実的実現形態であると、より積極的に意味付与しました。そして「権力の暴力」に対抗するに現実的に「人民の暴力」を対置する必要があるのか、又、それはどの様にして組織されるべきなのか、結論が出ないまま、より厚くなった機動隊の壁に対しては火炎瓶で「武装」し、火炎瓶で駄目なら爆弾、更に銃へと短絡的にエスカレ-トし、浅間山荘事件がその終着駅となりました。

 私は内ゲバ殺人にも、爆弾闘争にも関わった訳ではありませんが、あれは連合赤軍と革マル、中核、解放派の問題だと、彼等だけに責任を押し付ける訳にはいきません。徹底出来たかどうかは別にして、私も同じ論理を内在していたのですから。それは又残念ながら、我々が挑んだ体制の論理を完全には乗り越えられなかったことでもあります。大東亜共栄圏から中国侵略、更に南方へと次々と戦火を拡大し、様々な悲劇を強いて行った論理。今に至るまで、汚職、疑獄の類が止まず、会社のためなら何でもする、多少のことなら許されるという精神構造と重なるところはないでしょうか。

●因果は巡る

 現在S25年以来の歴史を誇る東大三鷹寮の入寮者名簿を、東大三鷹クラブ(同窓会)で作成中です。41年入寮者は私が幹事をやっていますが、一昨年に同期会をやった時は30名弱の名簿しかありませんでした。それが皆の協力を得て現在は80名程まで把握出来ています。定員300名の所、40年入寮組が200名ですから41年入寮組は100名程でしょうか。8割方わかったことになります。残り2割を探すのは今まで以上に大変だと思いますが、そのためにも早期に第二回同期会をやり、名簿を見ながらワイワイガヤガヤやっている内に、そう言えばあいつは……なんてことになればと思っています。

 それにしても、40年入寮者までは原名簿が元職員の梁瀬さんの手元にあり比較的探しやすかったのですが、41年以降は大学との緊張関係が深まる中で、寮委員会が選考した入寮者の名簿を大学側に渡しませんでした。その上、大学闘争の混乱の中で自分達で管理していた名簿もなくしてしまったので、誰が何処へ行ったかのみならず、誰が入寮したかまでそれぞれの記憶に頼るしかなく、随分苦労しました。当時の寮委員長の一人が私、今回三鷹クラブの幹事役で同期の名簿を作ったのも私ということで、因果応報というところでしょうか。

 ところで名簿作成作業終了に当たり、先日あらためて三鷹クラブへの入会と名簿購入の要請及び、名簿出版記念パ-テイの予告を致しました。その後パ-テイは正式に2月4日(土)pm2時より三鷹現地の新装なったホ-ルで行うことに決定し、正式な案内状を1月12日に郵送しましたが、今回は既に入会済みの方及びパ-テイ参加希望の方800名程にしか送りませんでした。案内状の届かなかった方も当日会場で入会手続きが出来ますので、都合のつく方は出席して下さればと思います。又、現在全体の入会者は700人ほど、41年入寮者は30人ほどですが、是非早目の入会をお願いします。

●最後に

 原稿が完成しない間に阪神大震災が発生しました。朝出掛けのテレビニュ-スだけではあれほど酷い震災とは分からず、日本ヴィクタ-の高橋さん(S34年入寮)と名古屋へ行こうと話していたので、出社後JR東海の馬場取締役建設部長(東大土木学科で高橋さんの一年先輩)に電話を入れてみました。秘書が出て暫くはどなたともお会いできませんという感じで、地震の大きさを実感しました。お世話になっているJR西日本の南谷副社長(S35年入寮)、近畿地建の橋本局長(土木学科で高橋さんと同期)始め渦中の方々のご健闘をお祈りして、筆を置きたいと思います。 干場 革治

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