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アマダイ通信 NO.32          02年初秋

注)文中に出てくるはアマダイこと不肖干場革治のことです。
(Tile Fish Network Letter)

  知人・友人各位
 ヒートアイランド東京の熱を冷ます雨が降って、次の季節の到来を告げます。いっときヒートし、疲れ、乾いた生き物と大地を、慈しみ潤わせる恵みの雨が今年も降って、心身もリフレッシュといきたいものです。通信の32号を送らせていただきます。

◎鏡沼の思い出
 去年五月にロンドン・パリ・ローマを駆け足し、夏は北欧へ。この五月は娘と独墺に遊ぶと、夏は東欧かロシアに行きたい。人気不足か少ないパックの中から、8月10日(土)成田発、16日(金)着で丁度いいスケジュールの「モスクワ・ペテルブルグ7日間」のツアーに参加する。できれば娘を同伴したいが、お金が・・と逡巡するに、大学院の入試が近いから勉強すると娘は言う。娘の一言に感心するやら、寂しいやら、いつものように小振りのキャリアーとザック一つの身軽な格好で正午発のアエロフロートに乗る。
 出発の朝、荷造りする時に、去年はオスロのフィヨルドで泳いだから、今年はバルト海で泳げるのでは、ピョートル大帝がフィンランド湾の沼沢地に築いた都がペテルブルグだし、オスロより緯度は低いではないかと、海水パンツに手が伸びる。だが、果たして泳ぐ時間はあるのか、ホテルから浜へ簡単に行けるのか、何の下調べもしていないのでわからない。前の晩も飲んだくれて、二日酔いで慌てて荷造りする間にパンツのことは忘れてしまう。機上から鹿島灘を見て思い出すが、如何ともし難い。泳げるならどうせどっかで売っているだろう、とまだ日本の感覚である。町中に自動販売機が林立し、コンビニも乱立して、24時間何でも買える国は世界で珍しいというのに。それにいざとなったら奥の手があると、35年前の那須の鏡沼のことを思い出す。
 当時駒場の中国語クラスでは8月に那須の三斗小屋温泉で合宿するのが恒例になっていた。お茶大や東女からも参加して盛り上がる。那須のケーブルカーを降りてから数時間の山越えをして、辿り着く温泉には今も電気がない。真夏だというのに、震えるほどに寒い。音痴で中国語がからっきし駄目のには勉強しようという気はさらさらなく、夜のコンパが目当だった。昼の勉強からは抜け出して寝たり、温泉に浸かったり、山歩きをしたりする。山道から目をはるか下にやるとエメラルドに輝く池が見える。鏡沼だ。思わず吸い込まれるように駆け下りる。岸の白砂が段々と濃い緑に変わり、果てはコバルトと化すが、飽くまでもクリアーだ。誰もいない山奥、よけいな物をまとわず自然と一体になり、大きなオタマジャクシと一緒に泳ぐ。凛として気分がいい。
 その時一緒に泳いだのが、今はコープネットの常務理事をしている同級生(S41LT2E)の矢野和博コープ東京副理事長だ。彼も生協運動に没頭していて授業には余り出なかった。先日矢野君の取引先の長谷川寿ニチレイ執行役員関東支社長(S45年東大三鷹寮入寮)と三人で築地で飲む機会を持つ。狂牛病やコープ東京の理事もしている生源寺眞一東大農学部教授(S45年三鷹寮入寮)が座長で進める農政改革の話が弾んだが、髪の毛の色といい、腹の出具合といい、時の流れと易きにつく人間の性に思いを致す。

◎バルト海でトップレスと
 サンクトペテルブルグの宿はその名もプリバルチスカヤといい、市の中心部から続くワシリー島の先端にあり、バルト海に面している。モスクワから国内便でペテルブルグに着いたのは夜遅くで、そのままベットに入ってしまう。朝早く起き、バスタブに漬かってから散歩に出る。白夜の街は暮れるのも遅いが、明けるのも早い。ホテルの裏は遠浅の浜辺で、コンクリートの堤防が切れて階段から海に出れらる。大きなテントのレストランらしきものが両脇で営業し、日曜日の朝だからか、プラスティックのテーブルを囲み、飲み続ける若者達がいる。犬を連れ散歩する老婆、ゴミ箱のビール缶を潰してビニール袋に入れる老人。灰色で羽と頭が黒いカラスが嘴で紙コップを転がして遊ぶ。岸辺では合羽の男達がゴムボートを膨らませたり、網を積んで沖合に漕ぎ出して行く。対岸左手には大きなクレーンが林立し、遠く右手には発電所か、縞模様の煙突が何本もそびえ立ち、白い客船がゆっくりと横切って行く。海水パンツを持って来なかったのを後悔する。
 その日の午後のオプショナルツアーには参加せず、団塊政策研究ネットワーク(Dネット)の世話人を一緒にする桂木君から見て来るように頼まれていた、マンモスに会いに行く。聞けば街の中心部、ネヴァ川に面した、ワシリー島の動物学博物館にいるという。ピョートル大帝が集めた面白い動物の剥製や骨格標本等を展示する所だ。30ル−ブル(1米ドル)払うと最初にシロナガスクジラの巨大な骨格が目に飛び込む。パンダはいないが、虎も白熊も、象もいる。象やバイソンに囲まれ、マンモスがガラスのケースに入っている。赤ちゃんもいる。遠くシベリアの凍土から掘り出され剥製にされたものだ。ふさふさと毛までついている。博物館等の企画会社を経営する桂木君はこれを日本に連れて来たいらしい。取り敢えずが目の中に入れ、写真で連れ帰ることにする。
 橋を渡った隣の島にペテルブルグ要塞があり、近くにオーロラ号が繋がれている。要塞には監獄があり、ロシアの10月革命はここから始まった。かってマルクス・レーニン主義を掲げ、ジョン・リードの「世界を揺るがした十日間」を、血沸き、肉躍らせて読んだ革命青年が見逃す訳に行かない。近づくと要塞の石垣の堤防や砂の岸辺で水着を着て日光浴する沢山の老若男女。トップレスの女性もいる。更に近づくとお世辞にもきれいとは言えないネヴァ川で泳ぐ者が結構いる。これならバルト海で泳げる!ここで海水パンツを買える!10ルーブル払って区画された水泳場に入るが売店はない。要塞の土産物屋を覗くがここにもない。ホテルの夕食までに泳ぎ終えなければ。ようやく掴まえたタクシーに5ドルでと交渉するが、10ドルだと譲らない。ガイドの話と違うが仕方がない。
 ホテルに帰って売店も探すが売っているのは土産物ばかりだ。掃除中のオバさんに1ドルのチップを渡し、彼女の忠告に従い、ザックにホテルのタオルを隠し、短パンをはいて浜へ出る。日光浴する中年のカップル、俯せのトップレスの若い女の子。男の子逹が水辺で走り回っている。先ず中年のカップルをポラロイドで撮ってやってから、トップレスの若い女の子逹も写してやる。若いスラブ娘は皆スタイルが良く綺麗なのに、中年になるとブクブク太ってみっともないと、我が身のことをしばし忘れるが、現実に戻ると、那須の鏡沼のようにはいかない。西友ストアで買ったカラーのパンツ一枚の“勇姿”をロシア娘に撮ってもらい、バルト海に我が身を浮かべる。

◎“生身の教祖”には簡単には会えず
 モスクワでの自由時間はレーニンに会いに行くことにする。前日のクレムリン見学の時にレーニン廟の所在を確認し、地下鉄にも乗ってみた。一人でもどうにかなる。ホテルで千円札1枚をルーブルに替えて近くの駅に向かう。窓口で指で“行って来い”の仕種をして、百ルーブル札を出し40ルーブルの釣をもらい、片道30ルーブルのチケットを2枚買う。地下深く潜り、ホームの標識のつづりを頼りに、一度乗り換えて“革命駅”に辿り着く。キオスクで“レーニン”と何度か言葉を掛けて、ようやく地上に出る。
 クレムリに近づくとそれらしい行列。昨日ガイドが、見学は無料だが60ルーブルかかると言っていたが、皆カメラやバッグを持っているからクロークがあるのだろう、思い込んで後に並ぶ。30分ほどでの番だ。カバンにカメラを2台入れていた。衛兵は首を横に振って駄目だという。言葉も通じない。クロークもないらしい。昨日見た武器庫にはクロークがあったのに。北京でも昨年毛沢東紀念堂が日曜閉館で毛沢東に会えなかったが、レーニンにも、もう一歩で会えない。“生身の教祖”には簡単には会えないのだ、もう一度モスクワに来いと言ってるのだろう。仕方なく引き返す。
 日本に帰ってDネットの世話人を一緒にする前田君に話したら、サハリンに行った時に同じ状況で袖の下を使ってうまく行ったよとのこと。ガイドが、見学は無料だが60ルーブルかかると言っていた60ルーブルはそういうことか、そんな国なんだ。ドル札を2枚出せばよかったんだ。

◎北京で毛沢東に会い、漢方を買わされる
 6月末から7月にかけての中国植樹ツアーの最終日の午前中が自由時間だったので、毛沢東紀念堂に行きたいと言ったら、北京に何回か来ている他のメンバーもまだ行ったことがないというので、全員でバスで行く。天安門広場は車を止められないので、道一つ隔てた駐車場に止めて、列に並ぶ。ここでもカメラと大きな荷物は持ち込み禁止で、中国人のガイドにまとめて預かってもらう。
 入り口で赤いバラの花束を2元(1元15円)で買って、安置室の前の献花台に捧げる。ガラスの箱の中で毛沢東は生前の姿のままで眠っている。東北の寒村から東京の大学に入って、高度経済成長の成果が未だ十分に及ばぬ農村の貧しさをいかにして救い、共に豊かになるか。ソ連も日本の革新政党も頼りにならないと思い悩んだ時、世界の農村が世界の都市を包囲するという毛沢東の戦略は新鮮であった。折しも小国ベトナムが巨像アメリカを打ち負かしつつあり、第三世界の民族解放の炎が燎原の火の如く燃え上がっていた。そして、人間の魂を変える!永続革命を!という文化大革命の叫びは「能力に応じて働き、必要に応じて取る」というマルクスの理想の共産主義社会への解の如く思えた。
 青春感傷旅行の高揚を抱えたままバスに戻ると、中国人ガイドが叫ぶ。皆さん、漢方のお店の駐車場に車を止めたので、駐車代を払う代わりに説明を聞いて下さい。聞くだけでいいんだな、ホテルのロビーと見間違う豪華な店に入る。脈をとるだけで診断できるという。白衣の中国人に手をとられ、酒量を答えると、肝臓が悪い、1月50元の漢方を3月飲むと直るという。アル中寸前のはドキッとする。三か月2万2千円で直るならと、カードを切る。日本に帰ると中国のやせ薬で何人も死んでいるという。同仁堂という権威ある店の薬らしいが、気持ち悪くて飲む気にならない。社会主義と資本主義とは人の性を善なるものと信じるか否かにあるかと考え込む。薬は持って来たままの姿で机の上にある。

◎トイレの一番安い国
 クレムリンでレーニンに会えなかったので、近くの高級デパートのグムを覗くことにする。デパートといっても専門店が雑然と集まっただけの大きなショッピングモールである。日本でもなじみのブランドショップも混じり、華やかだ。衣類等の値段は日本と余り変わらないどころか、ジーンズは日本より高い感じだ。庶民はこんな所では買い物をしないだろう。レストランでビールが2〜3ドル、白ワイン4ドル、ウオッカはオチョコ1杯3ドルくらい。美術館や博物館の入場料、地下鉄料金などはルーブルだが、レストランや土産物屋、タクシーなどはドルだ。自国の通貨より外国のドルが通用するというのは悲しいことだが、ひと頃日本で報道されたように、電気やガスも使えず、食べる物もない貧乏人は明日にでも凍えたり、飢えて死にそうな状況ではない。地下鉄の中で手作りの衣類や刺繍を壁に掛けて売ったり、街角で老女が紙箱の上に少しの野菜や古着やらを並べて売ったり、町を走る車が傷だらけ、錆ついたままなのを見ると庶民の生活は楽ではないのだろう。ポンコツに混じってベンツやBMWなどの高級車も走り、ブランドショップも繁盛しているところをみると、貧富の差が大きそうだ。
 デパートの中でトイレを探すがなかなかみつからない。外国旅行で一番困るのがこれだ。そこで前日使ったクレムリンのレーニン廟の左手端の無料トイレを思い出し、用を足す。小便を終わって後ろを振り向くと、便所のブースの上から頭が出てこっちをにらんでいる。一瞬ぎょっとする。なんたる大男。が、なんのことはない、便器の上に立っているのだ。そう言えば昨日使った時に、便座が壊れてない上に、便器がひどく汚れていて武富士のティッシュペーパーデきれいにふくのに手間取った。靴で上がってするからなんだと納得。 ペトログラードでマンモスに会いに行く時も途中でトイレに行きたくなり困った。この時はエルミタージュ美術館の前の公衆トイレを見つけて助かった。これが仮設の有料トイレで7ル−ブル(30円)。一人出入りする度にオバサンが中に入って掃除するが、仮設で7ル−ブルは高い。中国でもこんなに高くはない。この前行った中国の大同の懸空寺の入り口のトイレは1元(15円)で、中に入ると5角(1元が10角)だった。3年前に来た時は中のトイレが確か3角で、入り口のはなかった。総じて中国のトイレよりはロシアのトイレがきれいであるが、日本のトイレはどこでも無料で大体紙を置いてあるので安心だ。

◎値切るのは面白い?疲れる?・・・中露が資本主義経済になる日
 中国では値上がりしたのはトイレだけでなかった。大同の雲崗の石窟の入場料は50元に値上げされ、間もなく100元になるのだという。同じ山西省の名勝、五台山では先ず入り口で入山料として一人53元とられた。制服の係員がバスに乗り込んで人数まで数えている。日本ではどこにでもある景色だが、山が緑の木々で覆われ、沢から泉が湧き、せせらぎの音がし、冷たい清流が流れる、数々の名刹が甍を連ねる。半砂漠のこの辺りでは珍しいのだろうが、寺の拝観料は又別にとられるのだ。取れるところからは何でも取るという、なかなか見上げた精神である。
 中国で唯一城壁が無傷で残る、世界遺産の平遥古城を見学した時だが、皆で土産物屋を冷やかしながら歩いて楽しんでいた。木製の豚の頭の置物があって、1匹15元と言うのを12元に値切って一人が買った。するともう一人が俺はもっと安く買うと、違う男に掛け合って2匹で10元で買う。1匹12元で買った者はがっくり来る。ところが更に上手がいて、3匹買うからと8元にまけさせてしまう。1匹12元で買った者から3匹8元まで、値段はあってないようなものである。外国旅行でたまにする分には面白いのだが、毎日何から何までこうして値切りながら買わなければならないとなると疲れるし、全体としては非効率である。多少の駆け引きはあるにしても、原価に適正な経費と利益を乗せた正価を基準に取引をする方が効率的ではないだろうか。相手の顔色を見て、とれるところからとれるだけとろうとする“バザール経済”から中国やロシアが抜け出るのはいつだろうか。まだ生産性が低く、人件費が安いのでこんなことができるのだろうか。

◎中国黄土高原写真展・砂漠化する大地と人びと
 かって豊かだった中国黄土高原の緑は、文明によって破壊されました。今、人々は砂漠化が進む大地で乏しい水を頼りに、ぎりぎりの生活を送っています。そんな黄土高原の農村の様子とNPO法人「緑の地球ネットワーク」の緑化協力の姿を撮り続ける写真家橋本紘二さんの写真展を、京都、名古屋、大阪に続き広島、岡山の駅ビルで開催致します。今回もJR西日本に全面的にバックアップしていただきました。
【橋本 紘二】日本写真家協会会員。農村や農業問題に取り組む。
        「クリヤーの山・タイ山岳少数民族の暮らし」(農文協)、
        「中国黄土高原・砂漠化する大地と人びと」(東方出版)など
【広島会場】 9月20日(金)〜26日(木)   午前10時〜午後6時
       JR広島駅新幹線口1階 みどりの窓口前
【岡山会場】 9月30日(月)〜10月6日(日) 午前10時〜午後6時
       JR岡山駅2階コンコース 女神の広場
★入場無料 ★主催:JR西日本 ★協力:特定非営利活動法人 緑の地球ネットワーク緑の地球ネットワーク連絡先:大阪市港区市岡1-4-24-501 06-6576-6181
06-6576-6182 email:gentree@s4.dion.ne.jp URL:http://homepage3.nifty.com/gentree/
◎地方分権と平成の大合併
 以下は団塊政策研究ネットワーク(Dネット)の32回勉強会(6月3日)での、伊藤祐一郎内閣府地方分権改革推進会議事務局長(総務省審議官兼任)の講演の要約です。伊藤君はの2回目の大学1年生の時の同級生(S42年LTU2E)です。文責は要約者のにあります。要領を得ないところがあるとすれば、その後も落第を繰り返したの理解力、表現力に問題があると思い、ご容赦下さい。
 わが国は、昭和の20年代の後半から大合併をやりましたが、そのときの5,000人未満の町村数は333です。これが今、699でいかに人口が減っているか、地方の町村はほとんどが過疎で大変厳しい状況であるということがわかります。一番大きい市は横浜で、歌志内という6,078人の市が一番小さい市です。人口5万人未満の市が224、5万から10万が226、10万以上が225あります。都市が自立的に発展できる人口は30万です。中核市という制度もありますし、30万になった都市で人口減少になったのは、唯一、函館だけです。自立的な成長過程が生まれる30万以上の都市は64です。
★地方自治の現況
 わが国の最近の地方自治を取り巻いている状況は地方自治の進歩と少子高齢化と財政状況の3つの観点から説明できます。地方分権というのは哲学的には、自己決定・自己責任の原則に基づいた行政システムを作ることが最大の目標です。自分で決定しうるような町村の体制を整えるためには、一定の規模はどうしても必要です。少子高齢化の進展でありますが、50年後どういう状況になるか。人口は約2千万減って、高齢化はこうなってとなった時にやらなければいけない行政を考えると、地方公共団体の債務も重くなります。今の行政水準を確保するのもなかなか大変ですけれど、新たな環境にちょうど適合するような行政施策はどういう形でうまくやれるかについては、多分、今のところノウハウはどこにもありません。
 地方財政の状況ですが、多額の借入金があります。国と地方を併せますと、693兆円です。地方だけで195兆ですが、GDPが500兆として、その140%ぐらいです。みんな今のところは交付税に頼って、地方は生活しています。その交付税がほとんど破綻状態です。交付税の法定5税といいますが、12.6兆しかありません。地方の負担分だけでも30兆円の赤字が貯まって全体では、46兆円交付税特別会計の借り入れをやっています。国と地方に分けますから、地方の負担が30兆ですが、財政的に国は地方の面倒を見れない。地方は地方で、平成4年以降のバブルの崩壊に合わせまして、経済政策・経済対策が何回もあって、30兆、40兆円と協力したがためにこの数字になっています。状況はなかなか厳しいものがあります。
★合併のメリット・デメリット
 市町村合併のメリットですが、サ−ビスの高度化とか、施設設置の効率化とか、行財政効率化とか、イメ−ジアップとかがあります。合併のデメリットですが、役場が遠くなって今より不便になるとか言われますが、従来の市町村の役場とか出張所がなくなるわけではありません。将来なくなるかもしれないけれど。私は、日常生活圏、徒歩でも何でもいいんですけれど、30分ぐらいですが、道路が圧倒的に良くなっているから、合併の制約はこの第1の点についてはほとんど起こらないと思います。IT社会の中で距離的な不便性というのはまったくない。中心部だけがよくなって周辺部が寂れませんかということですが、昭和28年からの合併のときは確かにこの現象が起きました。最近では、法律の中に、市町村建設設計画を作るときに、きちんとそういうところの面倒を見なさい。地域審議会というのを作って、ある町で、合併したときにここに諮問したり、建議したりします。選挙区特例で手厚く議員さんを出すということも十分可能です。努力することによって、そんなことはなくなります。
★合併のハ−ドル
 合併の3大ハ−ドルと言われるのは一つは、役場の名前と役場の位置です。これが一番最後はもめます。2番目が、財政状況。アラが見えたらなかなかうまく行かないんで、ともかくアラが見えないようにするか、国が強制的にやるか。3番目が首長さんと議員です。12年経ったら年金をもらえるとか色々あります。
 合併協議会の設置から合併実現まで、約22ケ月といわれています。合併準備が2ケ月、市町村建設計画が6ケ月、いろんな諸項目の協議が8ケ月、準備作業が6ケ月出、2ケ月です。現在の町村合併特例法は平成17年3月までの時限法で、このときまでにある程度数字が出ないと、わが国の地方財政制度から来る地方交付税制度も多分持たなくなる、ということで、今、合併をお願いしています。
★合併は急いだほうがいい
 合併したら財政上どんなメリットがあるのか、地方交付税にどの程度特別交付金でもらえるかということですが、今もらっている特交は3年間で同じ額を渡しましょう、50%・30%・20%にするけれど、3年間で倍あげましょうということになります。
 公共投資については、現在の公共投資の30%増しの規模を10年間保障しましょう、というのが現在のスキ−ムです。合併特例債を出して充当率95%、元利償還70%と、もうこれ以上できないというぐらいの財政措置をしているかと思います。
 例えば、東京の田無と保谷。7万5千人と10万人、これだけで370億です。わが国の今の地方財政計画における普通建設事業の数字は24.6兆円です。3割増すというのは7兆円増えるんです。一方では、今年も公共事業を、10%落としました。来年も多分10%落とさないと予算が組めない。公共事業は急速に圧縮するにもかかわらず、ここで3割増やして、10年間やる。持つわけがない。合併が全部うまく行ったら、この制度は破綻です。だから合併は急いでやったほうがいい訳です。

◎コ−ポレ−ト・ガバナンスの課題・・・三鷹クラブ第44回定例会の御案内
 第44回定例懇談会は、田村達也さん(昭和32年入寮、グロ−バル経営研究所代表取締役、元日本銀行理事)に講師をお願いしました。テーマは「コ−ポレ−ト・ガバナンスの課題」です。アメリカにおけるエンロン等の破綻や雪印、日ハム、三井物産、東電と続く企業統治の危機、その原因と対策について語っていただきます。以下は田村さんと広島大付属高校以来の友人である中前忠さん(中前国際経済研究所代表取締役)による田村さんのプロフィールです。
 「田村君は、時代の流れの先頭にいつもいる。日本でも広報活動が重視され始めた時、日銀で初代の広報課長を勤めた。90年代の半ば頃から、大蔵省や日銀に対する風当たりが強くなる寸前に日銀を辞め、改革を公然と主張できる立場になった。90年代の後半はITの全盛時代だが、民間での最初の仕事がITを標榜するコンサルテイングのATカ−ニ−であった。そしてITバブルが崩壊して、コ−ポレ−ト・ガバナンスが脚光を浴びてきているが、その中で今後は、新しい職種といってもよい社外取締役を数社兼任し、独立したという。実際、日銀を辞める時には、どこかに天下りするのではないかと思っていた。そういう安易な途をとらず、荒波の中に漕ぎ出して行った。しかし、はたの者には苦労している様子を感じさせない。私には変化に器用にスマ−トに対応しているようにも見える。折りしも米国経済がバブル崩壊後の本格的な不況に入り始め、80年代の初頭から20年近く続いた長期の強気相場が終わり、大恐慌後のデフレと大失業、ベトナム戦争と共に始まった大インフレと失業時代に匹敵する経済社会の大調整期を迎えようとしている。少なくとも、私にはそう思えるのだが、この中でアングロ・サクソン流の、成長重視のコ−ポレ−ト・バリュウといった市場経済での価値観が大きく変質しようとしている。昭和の初年に、金解禁と欧米の金の輸出再禁止が重なって、我が国は大混乱となったが、今回も同じように一回り遅れた変化に遭遇するリスクが極めて高い。そのなかで、新しいコ−ポレ−ト・ガバナンスをどのように理解し、リ−ドして行こうとするのか。リスクの高い難しい仕事となる可能性が大きいが、最後までやり遂げてもらいたい。」
 今回は田村さんに大いに語っていただき、またいつも以上に出席者との議論が盛り上がることを期待しています。
日時  平成14年9月26日(木) 18時30分〜21時。終了後2次回あり。
場所  学士会館320号室(千代田区神田錦町3−28  電話03-3292-5931)
会費  5000円(会場費、夕食費等を含む)
申込先 平賀俊行 FAX03-5297-5020 電話03-3256-0559 緑富士
    干場革治 FAX03-5689-8192 電話03-5689-8182 泣eィエフネットワ−ク
         e-mail:tfn-hoshiba@blue.ocn.ne.jp
 尚、新名簿(5月刊)は多少残部があります。入用の方は上記にお申込み下さい。

◎今井さんが逝き、勝部君立つ
 9月1日に今井澄参議院議員が亡くなった。かつて、社会主義学生同盟マルクスレーニン主義派(ML派)の指導者の一人であり、東大全共闘安田講堂防衛隊長として、学生運動の直接の大先輩である。一週間後の地元茅野での告別式に受付として参加した。今井さんは東大医学部に入って直ぐ60年安保闘争を体験し、62年の大学管理法闘争を東大全学中央委員会議長として指導し退学処分となる。復学して全共闘運動を戦い安田講堂で逮捕・獄中へ。大学へ再度復帰して医師となり諏訪中央病院院長等として、地域医療に貢献、参議院議員になる。社会党では与党も経験、その後民主党のネクストキャビネットの厚生大臣として、医療福祉政策のパイオニアとして活躍した。享年62歳。少し早いが、波乱に満ちた、二度、三度と楽しむことのできた充実した人生であったろう。
 今井さんの人柄と活躍を反映し、お別れ会には各界から沢山の方々が参列し、坂口厚生労働大臣や、羽田孜民主党特別代表等の懇切で友情溢れる別れの言葉にはもしばしば涙した。とりわけ、友人代表の山本義隆元東大全共闘議長の言葉には会場全体が息をひそめた。「あの時君達(ML派)が提起した『帝大解体』とは、法案や条約に関して圧力をかけるそれまでの学生運動ではなく、社会に構造化された権力に立ち向かうことだった。決意した個人が自分の責任で闘う市民運動のさきがけだった」、「君が死んだ日、田中康夫氏が圧倒的に長野県知事に再選された。本当は君はこういう運動をやりたかったのではなかったか。新しい風は吹いている。安心して眠って欲しい。さようなら」。東大闘争以来、初めて聞いた山本さんの言葉であった。
 翌日、感涙さめやらぬ内に、後輩の勝部日出男君(S43年東大三鷹寮入寮)から電話がある。十月の参議院議員の補欠選挙に郷里の鳥取から出たいという。法学部卒業後KDDに入り要職を歴任したが、DDIとの合併に際して退職、IT関係を中心にベンチャー企業の起業コンサルタントをしている。政界再編で自民党が野に下ったのに、細川さんが政権を投げ出し、政治改革も頓挫してしまった。民主党結党の際には政権交替可能な二大政党制の実現を夢見ても結党大会に参加したが、自民党が小泉首相で国民に目眩ましをかませ、民主党もこのところ停滞が目立つ。この国が停滞を脱し、再度元気を回復するには、政権交替可能な二大政党制を実現し、政と官の関係を正し、政治と行政に緊張関係を取り戻す必要がある。民主、自由、社民の推薦を受け、無所属で立つらしい。敢えて火中の栗を拾おうとする勝部君には敬意を表すると共に、いい結果を生むように健闘を祈りたい。

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